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「これが植民地の学校か」“老台北”蔡氏が戦前台湾の「綜合教育読本」復刻出版(iza)

 日本が植民地支配した戦前の台湾では、主に内地から来た日本人子弟向けの小学校に対し、台湾人子弟向けに置かれたのが「公学校」。昭和8(1933)年4月に清水公学校に入学した蔡氏によると、同公学校ではすでに当時、全校の30教室に音声が流れる校内放送設備や、一部の教室と大講堂には18ミリ映画の設備が備えられていた。

欧米の植民地政策は、プランテーションなどで植民地を縛り付けるものだった。
もちろん教育など行った例はほとんどない。
日本の植民地は同化政策だった。
内地と同様にしようと試みた。
下水道を整備し、法を整え、電気を通し、教育を行った。
もっとも、内地と現地人の間に全く差がなかったか、というと、あったのも事実だ。
職場でも、同じ仕事をしていても日本人と現地人の間に手当に差があった、という事も確かだ。
だが、それでもその国の人たちがよい暮らしが出来るよう努めたことは間違いない。
賛否両論あるけど、

全校の30教室に音声が流れる校内放送設備や、一部の教室と大講堂には18ミリ映画の設備が備えられていた。

内地と同じとも言えるような学校設備を整えた、ということはどういう事なのか。
それをよくその意味を考えてみたいものだ。