Bartonの日記+c

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OFFICEの金額は高いのか?

http://itpro.nikkeibp.co.jp/free/ITPro/OPINION/20050414/159267/

これもまた独占市場であるからねえ……
確かにO2k以降のファイルの継続性や安定性(Wordはかなり怪しい動きをするがw)を考えたら、確かに、と思いたくなるかもしれない。
昔は日本では一太郎が幅をきかせていたんだが、それも……。
OpenOFFICE、使ってみたい気もするんだが、EXCELのマクロとかどうなんでしょうねえ。
個人的な俗説では、ヲタな人たちはどうしているんだろ、とか思ったり。
何でも流行るものは、その手のマニア・オタクの人が使い始めて、それが数年後に一気にコンシュマーに広がる、というのがこの手のソフトの方向性なのだが。
例:)Firefox



中国の暴動ネタはあちこちのサイトでやっていると思うので、私のとこであえて書かなくてもイイでしょ。
さて、電波男の続きでも。

森永卓郎氏がメイドさん喫茶に入り浸っている、という記述にはワラタw

で、続き。
80年代、フェミニズムの勃興もあり、「女性の時代」とかいうキーワードが生まれ、男は女に傅いてナンボ、ともいう扱いになった。
その発展系が「アッシー」「ミツグ君」「メッシー」などである。
なお、それは今でも形を変えて生き延びている。
以前山口洋子のエッセイで読んだのだが、「80年代に入ってから、玄人と素人の区別がつかなくなった」という記述があったことを覚えている。
つまり、素人の女性までもが自分が女性の性が商品になる、ということを自覚し、それをアピールしたのである。
いい例が、ミニスカやね。
後、2000年代に入った最近ではキャミワンピ。
ついでに言うと、パンツが見えるようなミニスカには萌えねえよ。
ミニ浴衣なんざあんなの浴衣でも何でもねえ! やめれ。
時代は「軽薄短小」が重んじられ、真剣に物事を考えることはダサイ、クライ、と言われていた。
90年代に入ってからの茶髪の流行は、その名残だと思う。
もー今じゃあ、都市部では黒髪の娘を探す方が困難で。
レア種なんで、知り合った時なんかや見掛けたときは俺は大喜びですよw
全くまあ何でああ染めるかなあ、と。
ヤンキー風味にしか見えへんし、髪の毛痛むのに。
今岡山近郊なんだが、こっちの女子高生や女の子は黒髪が多くてええのう。

閑話休題。
で、本田氏曰く「心ある男はオタクに走る」というのは非常に共感が持てる。
「萌え」成分は、その昔からあったのだ。
な、なんだってーーー??!!(AA略

吉永小百合という女優を知っておられるだろうか。
俺はメインに活躍した時代の後の人間なのだが、その当時の映画などを今見てもほれぼれする美しい女優さんだなあ、と思う。
今の芸能界では同年齢で見てもいない、といっても過言ではない。
実は私はサユリストの気持ちがひじょーにわからんでもない。
というか、サユリストの心の持ち方は、前世代の萌えだったんだよ、イヤ、ホントに。
吉永小百合さんはトイレに行かない」とゆーよーなことが信じられていること自身、まさにアイドルであり、萌えなんだよ、と。
「小百合」(字違い含む)という名前を付けている女の子がいたら、由来を聞いてみるといいかもしれないw

さて、その感情が具体的に文字として表現されるようになったのが「萌え」であると私は思う。
さて、それはどんな具体例がイイか、というと……個人的にはスワティとか、春歌とか、と行きたいとこなんだが、暴走気味になりそうなので、ここはリアル二次元(w のアル・アジフの解説で行こうw
作品名は斬魔大聖デモンベインな。
簡潔にあらすじとか含めて。

魔導書ネクロノミコンの精霊アル・アジフ(※ある程度魔導書として力があると人の形をとれるらしいw)はアーカムシティで魔術師見習い中途退学者自称探偵の大十字九郎と出会い、そこで大十字九郎の危機を救い、アーカムに災いをもたらしているブラックロッジと戦うことを契約する(させる?)
そして、アーカムを仕切っている覇道財閥からデモンベインという魔術士が操る鬼械神(デウス・マキナ)と戦うことができるロボットを合法、非合法の手を使って自らの鬼械神として使うことにし、ブラックロッジ(主にドリルロボ、他怪獣等)と戦っていく。
またこれがみょーに俗っぽい魔導書で、露天で食べ物のを漁るわ、飯はよく食うわ、特訓の時には体操着、魔術講義の際には白衣に大学帽に眼鏡、寝るときは裸ワイシャツ、という「こいつホンマに2000年以上外界の神々を退けるために戦ってきた魔導書か?」と突っ込みたくなるときが多々。
不遜で傲岸で、それでいて世界最強の魔導書。
家事はできないけどw
雨に濡れるのは紙だから嫌いだ、とか言いながら、リゾート(海)に行った際には……(笑)
でも、そんな魔導書でも鋼の意志を持っていたのだ。
ブラックロッジが、仇敵マスター・テリオンがクトゥルーを復活させ、アーカムを、世界を滅ぼそうとする。
それを阻止しなければ!
だが、先日の戦いで、エンネアという少女を守りきれなかった九郎は戦えないという。
攻撃にひたすら耐えて、九郎が戦う意志を取り戻すのを待つデモンベイン
そんな九郎にアルは云う、悲痛な叫びと希望の願いを込めて。
汝は死んでしまえ、自らを殴って殴って殴り倒して死んでしまえ!
そして生まれ変わって新生大十字九郎となるのだ!
あの少女(=エンネア)に語った言葉は嘘だったのか?
後悔したくないから戦うと云ったのは。
苦しみも悲しみも二人で分かち合おう。汝と妾は比翼の鳥。連理の枝
妾は汝を敬愛す!!
そんなことを謂われて戦わない奴は男じゃねえとばかりに奮い立つ九郎!
あっという間に逆転劇になり、マスター・テリオンに迫るのだが……ブラックロッジの幹部アンチクロスの罠にかかり、最大の危機に!
しかし、何とかして危機から去ることには成功した。
だが、アルは九郎とデモンベインを護り、死んでしまう……

というようなのが、デモンベインの大まかな内容です。
えらく偏っている気がしないでもないですが、その辺は自らやって確認してくだされw
むちゃくちゃおもしろいから。
なんか「萌え」よりも「燃え」な内容のような気がしないでもないですがw
ラストは九郎のあの発言(PC版オンリー)ですべてが判りますw
なぜ、「あの敵」に取り込まれることなく勝てたのか、が。
エンディングは、どちらかというと、旧神エンドの方が好きだったり。
閑話休題。
で、何が言いたいか、というと、こういった高純度のストーリーがあってからこそ人は心を保ち得るわけで。
人の「記憶」とか「心」とは物語によって成り立っているものである、と私は思う。
以前村上龍のエッセイ「すべての男は消耗品である」(まだザ・ベストでやっているのかな?)を読んでいたときの一説にあったのだが、F1レース映画の対比があった。
(確か二巻だったような記憶が……)
一つは事故やアクシデントばかりを集めた総集編のような映画。
もう一つは一人のドライバーをずっと追っていって、そして最後は事故にあって死んでしまう、という映画。
前車は事故すげえなあ、大変だったろうなあ、としか思わないが、後者に至っては主人公のドライバーに感情移入し、そして最後事故で死んでしまうシーンに涙してしまう、というものだった。
どうして後者の映画には涙し、前者には驚きだけなのか、と。
この違いはストーリーがあるわけで。
後者の映画はそのドライバーの生活、家族も知り、友人、知人との関係も知ってしまう。
それで主人公をよく知ってしまった上で、最期を知る。

つまり人の記憶や心というのは、そういった現実のストーリーとフィクションのストーリーによって作り上げられる。
そして、練られ、育まれ、自己だけのことでなく他者のことに思いを馳せることができるのである。
故に、心穏やかになる物語(現実・フィクション問わず)を求めるのかもしれない。


ここまで書いて、ふと思った。
本田氏は、本当はまだ希望を捨てたくないのではないのだろうか、と。
オタクがこれからのトレンドになる、というのはとりあえず置いておいて、後書きにもあるように女性が悪いんじゃあない、恋愛資本主義というシステムそのもの、それとそれにはまってしまった人々が悪いんだ、と。
この本では一見憎悪のような視点で、現実の女性(特に30代過ぎの負け犬と呼ばれる人達)を描いて、斬り捨ててはいるが、希望でもあり、祈りでもあるんじゃあないか、と思う。
憎悪で斬り捨てているのではない、と思う。
憎悪で斬り捨てているのはDQNだけだ。
そうではなく、本当の意味での「温かさ」、ひやりと冷たさのようにざっくりくる「温かさ」で斬っているのだと思う。
だから最後の方では「負け犬のみなさーん、気づいてくださーい」と言っていたりするじゃないか、と。
またこれを読んだ若い世代の人達にも、恋愛資本主義に惑わされるな、本当に愛すること、愛されることを求めろ、与えよ、という強い強いメッセージを。
後書きを読み直して、そんなことを感じた。



書き終えて………

本来当初は「うわ、おもしれー!! こんなネタ本、普及させなきゃあw 広めろ!!」なんていう軽い気持ちで書いていた。
私も文面を見るとおり、どちらかというとオタク陣営に所属する側だからだ。
もちろん、他もいうまでもない。
当初はもっとライトなノリで、電車男の解説のツッコミ(セーラームーンでなくプリキュアの件)にツッコミを入れてやろうか、とか考えたが、そんなことはどうでもいい、と思えてきた。
人が人を想うこと。
思い遣ること。
本当に大事なこと。
どんどんそういったことが失われているように思えてくるときが多々ある。
そんな世の中でも私も希望を持ちたいと思う。
多分、この本は世間一般では読んでも読まなくてもいい、路傍の石のような本のように思えるかもしれない。
新聞の書籍紹介にもでないと思う。
けど、読むことをお勧めする。
すべては後書きにたどり着くために。


なんか「電波男」と書いた当初一日で300アクセスもアップして、かなりビビリました(苦笑)
イヤ、まじかよー、と。
こんな辺境の判らない風味日記(自称「だら癒し系」と標榜していますがw)見に来てんだよー、ヲイ、と。
なんか電波男レポートリンク集やアフィリエィト広告から結構来ているしー、と。
そして何度も期待してきてくれた方もおられると思います。
そんな皆さんに一言。

「ありがとう」

期待できるような内容だったかどうかは私からは何ともいえないけど、私の駄文を最後まで読んでくれて感謝。
読み終えて、「何か」を感じてもらえれば幸いであると思います。


ではでは。